満つ塩に見えて影そふ百の灯

2019年より算命学を学び始めています。技法や運勢の読み方、自分自身への理解等も気になりますが、何より道徳や礼節を考えさせるその思想・根拠に強く興味を持ちました。主に日々の感じたことを自分の中の算命フィルターを通して発信していこうと思います。ブログ名は、「宮嶋の神のめぐみも満つ塩に見えて影そふ百の灯」 乙部可寛(『厳島八景』)より拝借いたしました。「灯」がゆるやかに、そして穏やかに、つりあいが取れていけるよう願いを込めて。

川上に向かう銀の鱗

京都の二条城近くに父方の実家がありました。

中学生の頃、祖父の葬儀に参列するために一度だけ宿泊したことがあります。

 

道産子からすると、京都の住宅の密集具合は異様に映りました。

 

江戸時代に間口の広さによって税金がかけられたそうですね。

間口を狭くして税金対策とし、玄関の奥行を広くして使用していた。

実際、父親が子供の頃に住んでいた建屋は、そういう造りでした。

少しタイムスリップしたような感覚で、でも初めて会う伯父達とはなんの違和感もなく打ち解けていました。初めは建物の密集具合に見上げても空が見渡せなくて息苦しさを覚えたものの、和の趣が生活のいたるところから顔を出しているようでもあり、身体は自然と慣れていきました。

 

父方家系には、本家が存在します。

能楽に携わっていた家系だとか。昔、父親にそう聞いたことがあります。

でも、その後、一人京都へ訪れた時には伯父夫婦に否定されたので事実は良くわかりません。その伯父夫婦宅のすぐ向いにある寺には、14基ほどの卒塔婆があり、全てご先祖様のお墓。江戸時代からずっとその地で続いてきたという住職の話でした。明治を境に今の姓になりましたが、それ以前は商人のような姓。父親の家系に商売するような雰囲気はなかったように思い、不思議で仕方がない。でも、居を構えている土地から、ご先祖様方は相応の財をなした方々だったのではないか、と推察しています。

 

でも、何事も長くは続かないもの。

 

 

父親の代の頃から、本家には女子しか生まれなくなりました。

父親の兄弟が本家の婿養子となっても、生まれたのはやはり女子。

その後、京都にあった家も土地も、名義は変更され、あとは伯父の住む家だけ。

 

女系は家系の終わりの印。

続く家系あれば、終わる家系あり。

古い家系は終わっていくのが自然の流れ。

 

財は分散され、居は新たな場所へ移ります。

新しい家系を一から作るべきタイミングなのでしょう。

 

世の中には流れがある、というのを強く意識したエピソードの一つです。

 

 

この場合、古い家系は終焉を迎えるという流れ、そしてそのタイミングで今までに手にした財を手放すという流れ、です。 ここで、子孫が財に執着し収奪しようとするものならば、それはとんでもない混乱を巻き起こすのではないだろうかということです。

 

算命学を学べば、それは、自分の持つエネルギーと日々回ってくる気の関係から読み解くことが出来ます。流れに逆らわず、マイペースにやってきた気のエネルギーを感じながら、その出来事を受け入れる、それは自然が変化を求めているということではないか、と思っています。

 

自分の位相法では、今年は対冲となります。新年早々に蓄積した財産があっという間に細分化されました。もう、教科書に書いてある通りだったので、「ヘ~、こういうことなんだ」と感心しかしませんでした(笑)

でも、今まで流れを意識してうまく行ってきたので、これが今年の流れなのだろうと理解し、財産が無くなることには一切の執着を持たず、財産を細分化するような行動(1日で100万程のお金を使いました)を迷いなく実行しました。

 

その後は、いたって生活は安定したもの。わずか二か月の間に全て完了し、トラブルがないどころかさらにラッキーなこともありまして。流れに沿って行動をする、ということは、ゴールへ直進で進むようなもの。理屈ではなく直感でも人生は充実して生きていける。

今年に消化すべきことをしたのだなあ、という感想です。